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赤ちゃんとの会話は、自身との対話。

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赤ちゃんと2人きりで過ごす時間を皆さんはどうお過ごしでしょうか。

ふれあいを通して色んな反応を引き出し、癒されることもあるでしょう。
眺めているだけではなく、かわいい姿を記録しようとカメラを向けて写真や動画をたくさん残している人も多そう。
絵本を読んであげたり、一緒におもちゃで遊んであげて過ごすことだってありそうです。

私は息子と過ごす時間の中で、会話していることが多い。

息子が「あー」とか「うー」とか「ふぅーん!」ってその場のノリで出したであろう声に、適当な意味をつけてうなづいたり同意したり一緒に笑ったりして、中身のない会話ごっこを楽しむ時間が好きです。

こういう会話ごっこを繰り返していたら、息子も早くお話しできるようになるかもしれない、なんて思いながら、今日も2人だけの寸劇を楽しむのであった。

自分と息子の一人二役

息子との会話で最近ふと考えたことがある。
息子と会話しているように見えて、私は自分と会話しているのかもしれない。

息子が発するのは「あー」とか「うー」とかの喃語であるが、私はそれに対して適当な意味を持たせて会話していた。

「あー!」
「そうかそうか!」
「あーあー、うー!」
「えーそんなことがあったのか!」
「きゃっきゃ!ふぅーん!!!」
「それはめちゃくちゃ面白いねぇ!」
「wwwwwww」
「wwwwwww」

みたいな、くだらない寸劇。
とても面白いのでぜひ赤ちゃんを育てている人はやってみてほしい。
まるでオードリーの漫才のように、「えへへへへ!」と2人で笑い合えることができるとめちゃくちゃ気持ちがいい。

この寸劇。
赤ちゃんである息子側は、当然だけどとりあえず声を発するだけになる。
会話の流れは全て私の受け答えにかかっているので責任重大だ。すべった時に誰のせいにもできない。(私が笑いかけても息子が無表情のときがある。悲しい。)
息子の発した音や表情、前後の流れからそれっぽい意味を考えて、それに対して私は返事をして会話として成り立たせているのだ。

これって、なんだか息子を通して自分自身と会話をしているみたいだ。

息子が向けているものはあくまで喃語であり、そこに息子の考えは付与されていない。
(はず。もしかしたら一生懸命に何か伝えようとはしているのかも。懸命でかわいいねぇ。)

息子の声を聞いた私がその言葉に意味を持たせて、それに対して返事をしてエセ会話を成り立たせるのがこの寸劇だ。

自分で考えた意図に、自分で考えて会話を作り上げる。
これは自分自身との対話をしているといえるのではないか。

赤ちゃんを通した自己対話

息子との寸劇を通して私は自分自身との会話を楽しんでいたのかもしれない。

息子とこんなこと話してみたいな。
こんな会話を楽しみたいな。
なんて深層心理が会話に現れていたのかも。
なんだか恥ずかしくなってきた。

それどころか、私は今自分が求めている言葉を無意識のうちに息子に言わせていたのかもしれない。

例えばだけど、仕事終わりに息子を抱き抱えながら、
「お父さん、今日もお仕事頑張ってきたよ〜!」
なんて声をかけることがよくある。
にぱっと笑って返してくれる息子の顔が見れたら、その日の疲れもだいぶ軽減するのでよく助けられている。ありがたや。
「あー」でも「ふー」でもなんでも、息子が言葉を返してくれたら「お疲れ様!」って言っているように感じてしまう。

これは労いを求めている私の心理が自然と出ていたのだろう、と今は考えられる。
息子も話しかけられてにぱっと笑ったり、声をあげたりしただけで、労いの気持ちはきっとそこにはない。
それでも、私はその笑顔や言葉から労いの気持ちを勝手に汲み取っているのである。

赤ちゃんとの会話はきっと自分との対話になっているのだろう。
自分が求めていることを赤ちゃんを通して言葉にしている。

自分がかけてほしい言葉を赤ちゃんとの会話時にたくさん話していたら、いつか実際に子供の方から期待した会話をしてくれるかもしれない。

仕事帰りに癒してもらいたい私は、これからも「ただいま」や「お疲れ様」を息子に呼びかけて、いつの日にか息子自身から私に1日の労いの言葉をかけてくれることを期待しているのであった。